今回のスミスは、恵比寿にある日本酒のバー「GEM by moto」を起点として、日本酒ペアリングの魅力を全国に広めている千葉麻里絵さん。「日本酒はマニアックなもの」というイメージが一人歩きしている中で、彼女は「ブルーチーズハムカツを食べたあとにどぶろく(濁り酒)を飲むとソースのような風合いに感じられる」といったようなキャッチーな体験を打ち出し、日本酒を多くの人に開かれたものにするべく奮闘中。その活動は、日本酒に携わる3人の女性にフォーカスしたドキュメンタリー作品『カンパイ!日本酒に恋した女たち(2019年)』でも紹介され、日本酒界のアイコンとしても大きな役割を担っている。
また、彼女は大学の物質化学工学科に通って化学を学んでいるのだが、その知識に裏打ちされた日本酒と料理のペアリングを行っていることもかなり特徴的だ。はたして彼女は、どんな哲学を胸に、かつて女人禁制だった世界の中で先駆者として走り続けているのだろうか。
今の彼女を構成した色々な背景
千葉さんの「舌」はまずどこで鍛えられたかというと、そのルーツは幼少期にまで遡る。祖父母が米農家で、千葉さんの実家にもそこで作られたお米や野菜が定期的に送られてきた。オーガニックな食生活が当たり前だったので、カップラーメンなどは食べさせてもらえず、お菓子も基本は手作り。千葉さん自身も、葉っぱや虫、土さえも「食べられるかな〜」と無邪気に拾って食べていたような少女だった。ちなみに、マクドナルドのハンバーガーは中学生のとき友達の家ではじめて食べたという。
なお、千葉さんの祖父が日本酒をよく飲んでいたから、彼女の今の生業には隔世遺伝も影響しているのかもしれない。祖父母の家の物干し竿に蛇が干してあって、それを日本酒につけこんでいた光景が今でも記憶に残っているそうだ。
一方で、彼女はトランペットやピアノ、算盤などありとあらゆる習い事に通っており、勉強もスポーツも大好きな優等生であった。中学卒業後は、地元岩手県内トップの高校に入学。だがそのハイレベルな環境で、自分がいくら努力したところで叶わない存在がいることを知り、軽い挫折を覚える。努力すればそれなりの位置まではいけるのだが、スポーツにしても音楽にしても勉強にしても、本当にそれが好きで打ち込んでいる人にはどうしても勝てなかった。
「自分の中には確固たるものがなく、何をやっても中途半端だと思っていました。親戚からも『器用だけど核がないよね』なんて言われたりして、それにどこか自分でも納得してしまって」
それまで高校に「入学すること」を一番の目標にして勉強に打ち込んできた彼女は、そこで自分が好きなことは何だろうと真剣に考え始める。そういえば、小学生のときから数学は得意なだけではなくちゃんと「好き」だった。それは、例えば国語なんかと違って、答えが一つしかないから。彼女の中には、『答えがたくさんあるのは、つらい』という感覚があるのだ。
高校では、数学と同じく解が一つに絞られる有機化学に取り組むことに決めた。素人からすると化学式は難しく見えるが、全体を構成する要素一つひとつはシンプル。しかし、その組み合わせ次第でいくらでも新しく見せることができる。
「その点は、ペアリングの仕事にも通じるかもしれません。大前提として感覚的なものではあるものの、味覚体験を極めていくと、顕微鏡でいうところの“ピント”が合ってくる。そうすると味の形みたいなものも見えてきます。『美味しい』という言葉には『美』が含まれていますよね。甘味、旨味、脂味だけをのせるのは、色でいえば赤とかピンクだけを使うようなもので、美しくない。私は強い色があるところに黒とか茶色とかっていう“ノイズ”を入れたいんです。それが奇跡のバランスで成立したときにはじめて『美しい味』になります」
この感覚の元を辿っていくと、今度は著名なパッチワークアーティストである彼女の母親に行きつく。千葉さんは子供のころからその作業をすぐそばで見ていた。パッチワークの作業は、様々な種類の布片を置いて組み合わせを決めるところから始める。そこで「どれが良いと思う?」と訊かれた千葉さんは、強い色だけを並べたがったのだが、するとなかなか採用されなかった。母が所々わざと気持ち悪い模様やくすんだ色を混ぜたりする理由が、当時は理解できなかった。
今ではその作法を、日本酒ペアリングという別の分野で引き継いでいる。
「ひずみ、違和感、ちょっとした汚れ……時と場合によっては非対称的なものを並べることが重要です。お店のスタッフにペアリングを教える際も、基本となる組み合わせだけでなく、その時々でアレンジする“感覚”を伝えています。彼女たちには、自分が好きな音楽やアートもその理由と一緒に共有しているんですよ。私はサカナクションをよく参考にしているんですが、『こういうマニアックな曲があるから、別の王道な曲も生きてくるんだ』なんて引き合いに出しながら(笑)」
その感覚を磨くために、千葉さんは毎朝かならず同じ時間に同じ酒を利くようにしている。日本酒の味は日々異なるが、己の感覚値も体調にあわせて毎日変わっていくので、定点観測することでその「ズレ」を認識する。言い換えれば、彼女は自分の直感を大事にしながらも、あまり信用しすぎないようにしている。同時に、利酒だけに没頭しても日常の中にある匂いに敏感になりすぎてしまうため、それも避けている。彼女はあくまで「日常化すること」を大切に考えているのだ。
つまり、自身の感覚を究極まで突き詰めた先に「普通」を取り戻す、ということ。本人は「時々は鼻や口を汚さなきゃいけないんです」と表現していた。
「個人的にもっとも強く意識しているのは、ペアリングの仕事が『対人間』であること。つまり、常にお酒を注ぐ相手にピントを合わせないといけない。自分が職人としてストイックになりすぎると、自分自身は満足するかもしれないけれど、相手は置いてけぼりになってしまいます。日本酒に限らずものを突き詰めた人は初心を忘れがちですよね。私にもその分野の達人になりたい気持ちはありますが、それは自分がおばあちゃんになって現場を退いてからでいいかな(笑)」
人好きの根源にあるもの
どんな人も取りこぼしたくない、という思いは彼女が営む日本酒バー『GEM by moto』でも徹底されている。同店はずっとカウンター席にこだわっているが、お客さん一人一人を気にかけて話しかけるようにしているという。少なくとも、常連さんとオーナーが束になって話している中でお一人さまが居心地悪くなる、なんてことは絶対に避けたい。彼女は実家が転勤族でしょっちゅう引っ越しを繰り返していたので、学校の中でその類の気まずさは何度も経験していた。友だちが自分だけが知らない話題で盛り上がっていたとき、そこでは適当にやり過ごしていたものの、心の底では寂しい思いをしていたのだ。
また、そういった小さなトラウマを抜きにしても、彼女はもともと「人好き」だから、出来るかぎり全員をケアしたいという思いが強いという。
「性悪説と性善説でいうと、私の場合、世の中の大半は良い人だと昔から本気で思っていて。だからどんな誘いでも断れないんですよ。断って相手が傷つくのが耐えられない。自分のやったことで相手が喜ぶ顔が生きがいなんですよね。ギブ・アンド・ギブで自分がどんどん幸せになっていく、私にとって日本酒はそのためのツールなんです。そうやってお客さんや取引先を優先するあまり、身近な人をないがしろにしてしまうところはダメなんですけど(笑)」
ここに、根っからの人好きを象徴するエピソードがある。彼女は、お酒の知識と感覚を都度アップデートするためにもう何年も酒蔵へ通い続けているのだが、酒蔵のオーナーはいわゆる頑固な職人のタイプが多く、最初の方はまったく相手にされなかった。仕事中は何を尋ねても基本は無視、昼の休憩にも自分だけ呼ばれない。しかし、彼女にはそんなタフな状況でも最後までしがみつく粘り強さが備わっていた。
それはなぜかというと、ひとえに「この人は面白い!」と相手のキャラクターに強い興味を持っていたからだ。
「(日本酒の鳳凰美田などを手がける)小林酒造の小林専務なんて、初日はぜんぜん相手にしてくれなかったのに、終わり際に『明日は朝4時から仕込みをやるけど来る?』っていきなり誘ってくるんですよ。予想外すぎて私もつい『はい、行きます!』って(笑)。子供のころから飽き性な反面、初めての体験であれば何でも挑戦したい性格なんです。だから自分ではストイックに取り組んでいるという意識もなくて。ただ、昔から勉強やスポーツでトップに行けなかった苦い記憶がある分、日本酒では負けたくない、という思いはあります」
現在は自らオンラインサロンを主催し、プレミアム会員にはオリジナルの日本酒を、おつまみやペアリングの「酒カルテ」と一緒に毎月届けているという。また、コロナ禍が落ち着いたら、ずっと念願だった海外展開にも本格的に挑戦していく予定だ。日本酒という一つのジャンルの中でも、様々な「初めてのこと」は訪れる。そこで彼女が興味本位に動きまわることで、日本酒の世界もどんどん拡張されていくのだろう。