長野県を代表する地酒として知られる「真澄」は、日本酒好きなら一度は耳にしたことのある銘柄ではないだろうか。そんな「真澄」の蔵元、宮坂醸造の継承者である宮坂勝彦さんは、長野でも指折りの歴史をもつ老舗酒蔵でありながら、独自の感覚を活かした様々な提案を通して日本酒の魅力を伝えてきた。伝統ある蔵元の後継ぎでありながらも新しい挑戦を続ける宮坂さんに、長野県諏訪市にある酒蔵を案内いただきながら話を聞いた。
経験を通して確立された、自分がつくりたいものへの想い
宮坂さんが家業である宮坂醸造に加わったのは2013年。自分は何者であるのかを問い続けるなかで明らかになってきた想いを胸に、門を叩いた。宮坂さんの想いとは、自分たちの足元を見つめ直し、確固たるアイデンティティを磨き上げるという決意。「たとえ地味でも、自分たちの哲学に共感が集まりあらゆる時代に残り続ける、上質なスタンダードをつくっていきたいと心に決めたんです」と宮坂さん。当時感じていたのは、2000年代後半以降の日本酒業界に対する疑問。大都市で売れている味やパッケージを模倣することで低迷からの出口を探していたという。「それは自分の目から見たら、全体が均一化されていった結果、それぞれの持つ良さや癖のようなものまで失われて、面白みが無くなっているように思えました」。それらしい酒造りができたとしても、そこには哲学がないように感じられた。この想いに至るまでには、様々な経験とそれらを通して得た気付きとがあったという。
ひとつに、宮坂さんが新卒で入社した百貨店で、婦人服売り場担当を経験する中で得た気付きがある。フロアにずらりと並ぶのは、流行に乗るのではなくブランド独自の哲学を守り、スタイルが確立された服たち。その哲学に共感し度々訪れるお客様と接するなかで、ブランドの哲学を守り続けることの大切さや、確固たるアイデンティティ無しにはロイヤルティも生まれないことを肌で感じた。自分のアイデンティティとは何だろう、そんなことを考え始めたのもこの頃だった。
またもうひとつには、ロンドンにある日本酒販売代理店に勤め、1年ほど現地で暮らす中で得た気付きがある。日々の生活を豊かにしてくれるシンプルかつ耐久性のあるものに囲まれ、それらを好んで過ごす人たちと過ごした。上質でシンプルなものは、飽きられることなく人々の暮らしのなかで愛され続けるのだと感じた。華やかなドレスのようにたまにしか必要とされないものではなく、シンプルな白シャツのように日常的に求められるものをつくりたい。そんな想いが心に浮かんだ。
極めつけが、ふらっと入った東京の飲食店で出された、一杯の日本酒との出合いだという。一口飲んだ瞬間に今まで持っていた日本酒のイメージがガラリと変わるような感動があり、「たった一杯だけど、こんなにも誰かの人生に喜びや感動をもたらすことができるんだと可能性を感じて。今でもその瞬間をはっきりと覚えています」。自分の気持ちや哲学が織り込まれたものつくっていきたいと決意したのがその時だった。宮坂さんの生き方を決定づけたその日本酒は、奈良県で造られている「風の森」。味わいや香りを左右し、日本酒造りに重要な役割を果たしている何百とある清酒酵母のなかで、7号酵母だけを使い造られたものだった。そしてその7号酵母とは、元を辿れば宮坂醸造の「真澄」の蔵から発見されたものだった。
これらの経験や気付きを通して、自分の作りたいブランドの姿がはっきりと見えた気がした。自分のつくりたい「上質なスタンダード」と、アイデンティティである「7号酵母発祥の蔵」であることとが、ぴったりと重なっているように思えた。そうして、これらを磨き上げる挑戦が始まったのだった。
原点に立ち返ることの強さと、そこから広がる可能性
「宮坂醸造の日本酒の全てを7号酵母でつくろうと言った時に、父も杜氏も大反対でした。こんな地味な酵母で、世界へ名前が知れ渡る日本酒なんてつくれる訳ないと」。例に漏れず、宮坂醸造も業界の流れの中で新しい味に目を向ける中で、宮坂さんは先ばかり見るのではなく足元を見つめなおし、自分たちが何者であるのかという原点に立ち返った。「“良いもの”の定義を外に委ねると人や時代とともに変わってしまうから、自分たちにとっての“良いもの”を追い求めたいと思ったんです」。反発の中でも押し進める意志を持てたのは、ぶれない原点に立ち返っており、信念を持ってつくりたい“良いもの”だったからに他ならない。最初は一気に白を黒に変えたかったと言うが、衝突があってからは時間をかけて、今までの酒造りに敬意を払いつつ、焦らずに想いを伝え続けた。「日本酒造りに携わっていて、時間をかけないことには成果も出ないということを実感したんですよね。自分が不器用なこともあって、一見遠回りに見えても、しっかりと準備をして成果を出すことにはこだわっています」と宮坂さん。そんな丁寧なコミュニケーションを通して、自分たちのルーツである7号酵母で造った自然で飲み疲れのしない日本酒の良さが再認識されていき、次第に反対していた父親や杜氏の理解を得ていった。
「うちは、日本酒業界の中では大手と言われるような規模だとは思う。多くの飲み手は、『真澄』にクラフトなお酒というイメージを持っていないのではないかと思います」。実際は手仕事の部分が多いという宮坂醸造の酒造り。「1本1本に哲学や意図がきちんと現れていて、思いが注がれている限り、僕たちはクラフトな酒造りをしていると考えています」と宮坂さん。クラフトマンシップであることというのは、規模の大小ではなくスタンスであり、そのスタンスこそが大事だという。それは酒造りに限ったことではないのかもしれない。事業や組織の規模の大小に関わらず、どんな思いで目の前の仕事に向かっているか、そこに対するチームや個人のスタンスこそが大切であり、本質なのだ。
*写真は宮坂さん提供
同時に、新しい可能性を追求することの大切さを宮坂さんは理解している。相反するようにも聞こえるが、揺るぎないアイデンティティを持ちながらも新しい可能性を広げていくということ。「ルーツやアイデンティティを徹底的に磨いていった先に、新しい挑戦と未来が見えてくると思っています」。良い米と良い水とを最大限に活かすという日本酒の原点に立ち返り、杜氏や同世代の蔵人たちと新たな濾過方法や技術の取得に試行錯誤し続けている。他には、日本の食の伝統を守るための取り組みとして、日本酒、醤油、お茶など6種類の伝統食品の後継者が集まり「HANDRED」というユニットも結成した。「過去に固執したりあぐらをかいたりせずに、異業種であっても志を同じにする人たちと、日本食の可能性を広げていきたいと思っています」。宮坂さんが感銘を受けたというのが、メンバーの一人であるかまぼこ屋さん鈴廣の社是である「老舗にあって、老舗にあらず」という言葉。自身もまた、伝統を重んじながらも挑戦を重ねてきた。「前衛的な姿勢を持ち続けるということも、伝統を守ることと同じぐらい大事なことなのかもしれません」。
そんな宮坂さんがいま考えているのは、日本酒を造ることだけではなく、蔵元のある諏訪の自然や街を守り、つくっていくこと。「今の真澄があるのは、伝統や地域という背景があってからこそ。だからこそ地域や自然に立ち返り、深く関わり盛り上げることを、していくべきだと考えています」。例えば水源である霧ヶ峰を守ることや、農家さんと会話しながら有機無農薬の米を育てていくことを、自分の代では追求していきたいと話す。描くのは、この日本酒を持って世界に日本を諏訪を伝えていき、諏訪に訪れてくれる人も増え、街と世界とがつながっていくような未来。そのためにも、ルーツである諏訪の街や自然、作り手のことをもっと知り、積極的につながっていきたいと動いている。
*写真は宮坂さん提供
宮坂さんのアイデンティティとは、家業である酒造りそのもの。自身の哲学やこだわりを、酒造りに反映させ重ね合わせてきた。大事にしているのは、話題性や目新しさを求めて付け足したり飾ったりするのではなく、そのものの持つ価値を見つめ直し、最大限に活かすために磨き続けるということ。自分がどこに立っているのか、その足元が見えているからこそ自分の可能性を信じることができ、未来に向けての新しい挑戦もできるのかもしれない。目先のことに追われ翻弄されることも多い日々に、今一度自分がどこに立っているのか、その足元を見つめ直してみてはいかがだろうか。